イタリアの街を歩いていると、角ごとに「BAR」と書かれた看板が目に入ります。日本で「バー」というとお酒を飲む夜の店を思い浮かべますが、イタリアのバールは、朝から人びとが立ち寄ってコーヒーを飲む場所です。
カウンター越しにひとこと注文し、小さなカップのエスプレッソを飲んで、また街へ出ていく。今回は、そんなイタリアのバール文化を紹介します。
バールとは
イタリアでは、フランスのカフェにあたる店が「バール」と呼ばれています。バールでは、さまざまなエスプレッソのドリンクのほか、焼き菓子やお酒も出されるのが一般的です。
街の中心部のバールでは、カウンターで飲むか、テーブルに座って飲むかで値段が変わることが多いとされます。さっと立ち寄って、カウンターで飲んで帰る。それがバールでのいちばん身近な過ごし方です。
コーヒーを出す店の歴史は古く、ヴェネツィアでは1683年、サン・マルコ広場に最初のコーヒーハウスが開かれたといわれます。同じ広場には、1720年に開店したカフェ・フローリアンも残っています。こうしたコーヒーハウスの伝統が、いまのバールにもつながっています。
カウンターで飲む一杯
イタリアの伝統的なエスプレッソを守ろうとする団体(トレヴィーゾの協会)は、その淹れ方について次のような決まりを示しています。
- バールのエスプレッソマシンで、訓練を受けたバリスタが淹れる
- 挽きたての粉を使い、抽出時間は20〜27秒
- カップは底の細い磁器のもの
- クレマは濃いヘーゼルナッツ色で、かき混ぜなくても120秒以上保たれる
こうした決まりからも、エスプレッソが単なる飲み物ではなく、店と道具とバリスタの技がそろってはじめて成り立つものだと考えられていることがわかります。
コーヒーは、飲み物である以上に、日々の儀式。
ユネスコへの申請
2022年、イタリア農業省は、伝統的なイタリアのエスプレッソをユネスコの無形文化遺産の候補とする申請を承認しました。申請の名前は「ヴェネツィアからナポリまで、象徴的なコミュニティにおける文化・儀式・社交・文学のあいだにあるイタリアのエスプレッソ」というものです。
この申請は、飲み物そのものではなく、淹れて飲むまでの伝統的な営みを対象にしています。担当した次官は、イタリアではコーヒーは単なる飲み物以上のもので、国民のアイデンティティの一部だと語りました。感染症の流行で、バールのカウンターや屋外のテーブルを舞台にした人と人とのつながりが損なわれたことも、申請の背景にあったといいます。
申請は当初、トレヴィーゾの協会によるものと、ナポリを中心とするカンパニア州によるものの2つに分かれていましたが、のちにひとつにまとめられました。ナポリ側の提案には、老舗カフェ「ガンブリヌス」の店主たちが関わっています。
ナポリの「カフェ・ソスペーゾ」
ナポリのバールには、「カフェ・ソスペーゾ(保留のコーヒー)」と呼ばれる習慣があります。コーヒーを頼むときに、もう1杯分の代金を先に払っておき、その1杯を、コーヒー代を払うのが難しい誰かのために残しておくというものです。
この習慣は少なくとも20世紀の初めまでさかのぼるとされ、2011年にはナポリで、毎年12月に祝われる「カフェ・ソスペーゾの日」が定められました。その後、この考え方はヨーロッパやアメリカのカフェにも広がっていきました。
1ユーロのエスプレッソをめぐって
一方で、バールのエスプレッソのあり方を問い直す声もあります。イタリアの食の専門誌ガンベロ・ロッソは、多くのバールでエスプレッソが1ユーロ前後、ときにはそれ以下で売られていることを「安すぎる」と指摘しました。安さが当たり前になることで、バリスタや焙煎する人、生産者の仕事が正当に評価されにくくなっているというのです。
伝統を守ることと、品質を高めていくこと。スペシャルティコーヒーが広がるなかで、イタリアのバールもまた、その両方と向き合っています。
立ち飲みの一杯に宿るもの
カウンターで交わすあいさつ、小さなカップ、数口で飲み終える濃い一杯。イタリアのバールの魅力は、コーヒーの味だけでなく、そこに流れる日常の時間にあります。
家でエスプレッソや濃いめのコーヒーを淹れるときは、少しだけ立ったまま、香りを確かめながら味わってみてください。遠いイタリアの街角の空気を、ほんの少し感じられるかもしれません。