カウンター越しに一杯ずつ淹れられるコーヒー、新聞を広げる常連客、厚切りのトーストとゆで卵。日本には「喫茶店」と呼ばれる、独特のコーヒー文化があります。
コーヒーが日本の暮らしに根づいていく過程で、喫茶店は大きな役割を果たしてきました。今回は、その歩みを資料とともにたどってみます。
はじまりは「可否茶館」
国立国会図書館の電子展示によると、1888年(明治21年)、東京・上野に「可否茶館」という店が開かれました。日本の本格的な喫茶店のはじまりとして、よく名前が挙がる店です。
- 店内には新聞や雑誌、トランプ、碁、将棋などが置かれていた
- コーヒーや紅茶のほか、パンや菓子も出された
- 店主の鄭永慶は、アメリカ留学中に見た店を参考にしたとされる
上流階級の社交場だった鹿鳴館に対して、可否茶館は庶民や学生のための社交の場を目指したといわれます。飲み物を出すだけでなく、人が集い、語らう場所であること。喫茶店の原点は、ここにあったのかもしれません。
文化人が集ったカフェー
その後も、新しい飲食の場が次々に生まれていきます。国立国会図書館の電子展示によると、明治30年(1897年)ごろには牛乳を飲ませる「ミルクホール」が登場し、学生に人気となりました。1910年(明治43年)に日本橋に開いた西洋料理店「メイゾン鴻の巣」を、木下杢太郎は東京で最初のカフェーと見なしていたといいます。
明治の終わりになると、東京・銀座に「カフェー」を名乗る店が次々に生まれます。同じ電子展示によれば、1911年(明治44年)には「カフェー・プランタン」「カフェー・ライオン」、そして「カフェー・パウリスタ」が相次いで開店しました。
全日本コーヒー協会の年表は、カフェー・パウリスタがブラジル側の後援のもと、コーヒーを宣伝するために各地に店を開き、コーヒーの普及に大きな効果を与えたと紹介しています。安く利用できたパウリスタは、作家の芥川龍之介が待ち合わせに使っていたことも書簡からわかっています。
ヨーロッパのコーヒーハウスがそうであったように、日本のカフェーもまた、作家や芸術家が集まり、議論を交わす文化の場になっていきました。
戦争と、その後の広がり
全日本コーヒー協会の年表によると、戦時中にはコーヒー豆の輸入が完全に途絶え、輸入が再開されるまでの数年間、コーヒー豆は貴重品となりました。
戦後、喫茶店は急速に数を増やしていきます。総務省の統計をもとにした同協会の資料では、喫茶店の事業所数は次のように推移しています。
- 1966年:27,026
- 1981年:154,630(ピーク)
- 2021年:58,669
ピークだった1981年から比べると、いまの喫茶店の数は半分以下です。それでも、街の喫茶店はいまも多くの人に親しまれています。
喫茶店は、コーヒーを飲む場所である前に、人が集まり、くつろぐための場所だった。
一杯ずつ淹れる、ということ
喫茶店のコーヒーといえば、ネルドリップやサイフォンを思い浮かべる人も多いかもしれません。全日本コーヒー協会は、ネルドリップを舌触りのなめらかなコクのある味わいが楽しめる淹れ方、サイフォンを全体的にバランスのとれた丸い味わいになる淹れ方と紹介しています。
道具を選び、豆を挽き、目の前で一杯ずつ淹れる。そのていねいな所作も、喫茶店で過ごす時間の一部です。
朝の「モーニング」
喫茶店文化から生まれたものに、モーニングサービスがあります。愛知県の観光サイトによると、愛知県一宮市では、繊維産業が全盛期だった昭和30年代前半、織機の音を避けて喫茶店で商談が行われるようになりました。一日に何度も来店する常連客に、店主が朝のコーヒーにゆで卵とピーナッツを添えたのが、モーニングの始まりとされています。
コーヒー1杯の値段で、パンや卵料理がついてくる。地域の人の暮らしに寄り添うなかで生まれたサービスです。
時代とともに、コーヒーを楽しむ場所はチェーン店やコンビニ、自宅へと広がりました。それでも、店主の淹れる一杯と、ゆっくり流れる時間を味わいに、喫茶店の扉を開けてみるのもいいものです。そこには、日本のコーヒーが歩んできた百年以上の歴史が息づいています。